仲村一男のエッセー

 

 マロニエのむせかえるようなにおいにさわやかな五月の中ごろわたしはパリに出かけた。町中マロニエの花が真っ盛りで、明るい並木道を歩くと、むせるような甘いにおいに、ああパリに来たのだなあと、こみあげてくる喜びを、おさえるのに苦心したほどである。パリ市から東へ少し離れたモントルイユというところに、ちょうどよい家があって、その二階で友人と二人半歳ほど暮らした。三十分ほど歩けばバンセンヌの森へも行ける静かな街。裏庭には、太ったコンセルジエのおばさんが植えた美しい花がたくさんあり、大きな桐の木が四、五本あって、毎朝夜明け前から珍しい小鳥が来てさえずり、いつもその声で目をさましたものだ。休日など遠くの屋根で親子らしい二人が楽しそうに煙突の修理をしていて、とてものどかである。家から二、三軒むこうに喫茶店と八百屋さんがあって、毎日一、二回は行くので、すぐに知り合いになり、朝夕写生の行き帰り顔があうと手を上げて、大きな声であいさつしてくれる。喫茶店のお客など時々似顔を描いてやるので幾人か友人も出来た。ある日、家内から送って来た刺繍入りの財布を、八百屋の奥さんにプレゼントすると、たいへん喜んで、顔を赤らめながら抱きつかれそうになった。旦那がそばにいるし、ちょっと困った。フランス人は知り合いになると、誰でも人なつこくて親切で、砂糖や玉ねぎなどを買いに行くと、いちいち声を出してフランス語で、品物の名前を教えてくれる。近くの郵便局の裏に、週二回市が立つので、ここへもよく出かけた。色とりどりのテント張りの店がたくさん出て、珍しい物がいっぱい売っていて奥さん連中や主人まで大きな籠や鞄に山ほど買ってゆく。時にはアコーディオンを弾く大道芸人まで出て、いつそうにぎわいを増す。今ごろは大粒のとてもおいしい桜んぼが出回っているころだ。

 

※コクミン健康クラブ「月刊 健康」絵のある随筆(1969年7月)

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