仲村一男のエッセー

 

 新しい内容の作品を、表現するには、新しいメチエを、編出さねばならない。自己の思想を高めると、同時に、常に新しい、技術を研究し達成する事が、私達の義務だ。先ず感動し、その感動が、描くことにより、益々、強く、大きくなることによつて、立派な表現が、出来るのでは無いでしょうか。
  無意識の、状態から生れ出る自己を、表現すべきだと思つている。無心になつて、たたきつけ、ひつかき廻し、盛り上げ、はね飛ばし、流し込み等、等、幅広いメチエを続けつつ、自己の体質が、マチーエルに出た時、勝負があつた様な気がする。私はマチエールを特に重視しているが、人が私の絵から、私の体臭さえ感じてくれる様な、マチエールが出てくれることを、願っている。
  今まで無かつた、又、誰もが、真似の出来ない様な、メチエを編出した時、真に新しいと云えるのでしょう。十号に向つた時と、百号に向つた時のメチエが、同一であつてはいけない。是はわかり切つた事ですが、中々むつかしい問題だ。ともすると、忘れて同一視している事がある。おのおのの其号数に、メチエがぴつたり合つた時、作品が渾然と輝く。最近、どの展覧会にも、大作が多くなつたが、作品の号数とメチエがぴつたり合つた作品が少ないように思う。何だか引伸ばしたような、無理を感じる作品が多い。
  作品個々に、作品の個性がなければいけないという事は、どれもこれも同じメチエであつてはいけないと、いう事になる。一枚の作品には、生きたメチエでも、他の作品には通用しない。又違つた、メチエを編出さねばいけない。とても恐ろしい事です。いつか大いなるものに、授かる日を念じつつ、トレーニングを続けている。

 

※「独立美術」27回展集(1959年)

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